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好間地区地形

1.地形等

市内13地区のうち最も面積が小さく、東部を平の市街地と接している。
北西に閼伽井嶽を背負い、中央を夏井川支流が流れ、東端の川中子で夏井川と合流する。
ほぼ丘陵地で、好間川流域にはやや広い平坦地もあり、住宅地・農用地となっている。また地区の西部には、水石山の一部および好間川渓谷などの豊かな自然資源が存在する。
かつて、炭鉱のまちとして栄えた所であるが、昭和55年内陸型工業の集積を図るため、地域振興整備公団により「いわき好間中核工業団地」(324.1hr)が開発着手され、工業系の土地利用が図られている。

2. 歴史

古くは好嶋荘といわれたことから、古名にちなんで好間と名付けられた。
石器が多量に出土した愛谷遺跡は、縄文時代中期(BC3000年)から室町時代にかけての複合遺跡であり、古代からこの地に人々が住んでいたことが証明される。
文明15年(1484)国人領主岩城氏は、大館に「飯野平城」を築き、拠点を白土城から移して本城とし、慶長7年(1602)岩城領12万石が没収されるまで続いた。その支配区域は、現在の双葉郡から茨城県北茨城市までに及んだと伝えられる。
産業戦士の像慶応元年(1865)ころ石炭採掘が行われたが中止し、明治に入って明治37年(1904)白井遠平が好間炭砿を設立し、北好間から平駅まで軽便鉄道を敷設して石炭の運搬をはじめた。明治41年には、好間から綴駅(現内郷駅)間に石炭専用線が敷設され、出炭量も増加した。
好間炭砿は、大正4年(1915)古河鉱業㈱に譲渡され古河資本の炭鉱として昭和44年(昭和39〜44年は系列会社の好間炭砿)の閉山まで続いた。
第2次大戦後の石炭産業の最盛期(昭和25〜6年)には人口2万3千余人に達し、人口では日本一の村といわれた。この時期炭鉱従業者は、2千人以上を数え「常磐炭田」の主要産炭地として活況を呈したが、エネルギーの主体が石炭から石油へ転換したため急激に衰退し、炭鉱のすべてが姿を消した。
(資料提供:いわき未来づくりセンター)

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